国内外でGⅠ9勝、獲得賞金19億1526万3900円はともにJRAの記録を更新。牝馬3冠を達成し、年度代表馬は2度も受賞――。
数々の金字塔を打ち立てて20年に引退した女傑アーモンドアイ。その競走生活に密着取材を続けてきた新居記者が、当時のノートや関係者の証言とともに、輝かしい競走生活の表と裏を紐解いていく。
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持って生まれた類い稀な能力。その成長を削ぐことや停滞させることなく伸ばした、厩舎や牧場感関係者の力は大きい。
デビュー戦は2歳8月の新潟芝千四。スタートで後手を踏み、内回りコースに加え、遅い展開もあって②着止まり。猛然と追い込んだものの、野中を背に抜け出していたニシノウララに2馬身届かなかった。
だが、他馬より0秒6以上速い末脚にルメールは「反応がメチャクチャ速かった。新馬戦では感じられない反応でした。馬から降りた時、〝先生、心配しないでください。走る馬です。次はイージーウインですから〟と言いました」と後述している。
この次戦から伝説が始まり、7連勝でドバイを制して、文字通り〝世界のアーモンドアイ〟となった。
後日談だが、世界進出後は海外の記者が美浦の厩舎にも訪れるようになった。
とある日、アーモンドアイが洗い場の作業を外国人記者に撮影されているところに野中が厩舎に顔を出しに来た。すると国枝師は「アーモンドアイを唯一、負かした騎手です」と紹介して、その場が和やかな雰囲気のなったのは言うまでもない。
管理する国枝師はデビュー前から「モノが違う」と感じていたが、その言葉が桜花賞前の時点では「ひょっとしたら名牝かもしれないぞ」と番記者には語っている。
桜花賞を直線一気でゴボウ抜きしてGⅠ初勝利を飾ると「バネがあるから浮いて走っているように見える。天性のモノだろうな。図抜けている。今までで扱った馬では一番かもしれない」と。
その後、三冠牝馬となり、「夢を与えてくれる馬」と言えば、ドバイ直前では「天井知らずでどこまで良くなっていくのかわからない。恐らく、日本の歴史上で5本の指に入る馬だろう」とこの時点でGⅠ4勝だったが、名伯楽はシンボリルドルフ、ディープインパクトら7冠馬と同等の評価をしているのだ。
よく競走馬で騎手や厩舎関係者は〝スタミナは補えるが、スピードは天性のモノ〟と表現する。距離は誤魔化すことはできても、脚の速さは持って生まれたもの。
アーモンドアイは一瞬のスピードに長け、それがどんどん加速して長く続く。そして牡馬よりも強靭なメンタルに加え、3歳から4歳、そして5歳へと成長力によりさらに昇華していった。
「走ることに対して、最後まで前向きだった。最後のジャパンCを勝った後も疲れがなくて、有馬記念を使いたかったよ」と国枝師も振り返る。
「常に夢が膨らむ走りをしてくれた。ひとつひとつステージが上がり、ずっとワクワクさせてくれた。本当に充実な日々を過ごさせてもらった」
これは関係者だけでなく、ファンも同じ気持ちになれた稀有な存在。それは今でも色褪せない。
馬とは関係のない家庭環境で育った。ただ、母親がゲンダイの愛読者で馬柱は身近な存在に。ナリタブライアンの3冠から本格的にのめり込み、学生時代は競馬場、牧場巡りをしていたら、いつしか本職となっていました。
現場デビューは2000年。若駒の時は取材相手に「おまえが来ると負けるから帰れ!」と怒られながら、勝負の世界でもまれてきました。
途中、半ば強制的に放牧に出され、05年プロ野球の巨人、06年サッカードイツW杯を現地で取材。07年に再入厩してきました。
国枝、木村厩舎などを担当。気が付けば、もう中堅の域で、レースなら4角手前くらいでしょうか。その分、少しずつ人の輪も広がってきたのを実感します。
「馬を見て、関係者に聞いてレースを振り返る」をモットーに最後の直線で見せ場をつくり、いいモノをお届けできればと思います。